2019/05/11

[045]音ルールとは何か(1)


「母わ『ダハ!』て笑うぞ」
「子わ『ダッハハハッ』だわ」
「小僧ら、【わ】て! 【は】だ! ワハハ!」

[ははわだはてわらうぞ
こわだっはははっだわ
こぞうらわてはだわはは]
(旧版:(102) 2008/05/21 改作)

久々すぎる記事なのに、前の続きです。

回文の定義について考えていたのでした。このブログで提唱した回文の定義は
回文とは、文であって、その表記のひとつが「逆から辿ると元と同じ」という条件を満たすものである。
というものでした([042])。したがって、文のいろいろな表記の仕方に応じて、いろいろな種類の回文があるのでした。ひらがな表記で考えるのが普通の回文、ローマ字表記で考えるのはローマ字回文、などなど。

さらに、拍単位回文(「東京都(とうきょうと)」「消防署(しょうぼうしょ)」など)その他の特殊な種類の回文をこのルールの範疇に収めるために、「〇〇単位・××表記回文」という枠組みを考えました([044])。この枠組みでは、拍単位回文は「拍単位・ひらがな表記回文」になっています。というのは、ひらがなで表記したもの(とうきょうと)を、拍を単位にして区切り(と-う-きょ-う-と)、区切られたそれぞれの部分を一文字と見ると、回文の上記の定義によって回文になっているからです。

音ルールとその疑問点


さて、これまで議論してこなかった、重要な種類の回文があります。それは「音ルール」による回文です(「音ルール」というのはこのブログで勝手につけた名前です)。たとえば「茄子は食わすな」が音ルールによる回文です。普通のやり方でひらがな表記にすると「なすはくわすな」となって、逆からたどっても同じにならないのですが、“音を逆読みすれば”、「は」と「わ」が両方「ワ」の音になり同じだから、これは回文だ、と考えます。

これまで考えてきた回文の定義では、文を文字にしたときの“文字の逆読み”を考えていましたが、音ルールでは“音の逆読み”を考えています。この“音の逆読み”とはなんでしょうか。「茄子は食わすな」を声に出して読んで、その音声を逆再生する、という意味ではないはずです。はたして音ルールとはなんなのでしょうか。

次のような考え方は一見悪くなさそうです。それは、
“音の逆読み”とは、声に出したときの音を、「ひらがな表記での各文字を単位にして」逆に辿ることである
というものです。「茄子は食わすな」は、そのひらがな表記「なすはくわすな」のそれぞれの文字に対応する音が「ナ」「ス」「ワ」「ク」「ワ」「ス」「ナ」で、逆からたどるとたしかに同じになっていそうです。

これは一見よさそうなのですが、それは一見の話で、よく考えると変なところがあります。それは「きゃ」「しゅ」などの拗音がうまく扱えなくなることです。たとえば「趣旨」という言葉を考えます。これはひらがな表記で回文になっていますが、上記のやり方で“音の逆読み”をするとどうなるでしょう。「ひらがな表記での各文字を単位にして」音を逆に辿ってみます。「趣旨」のひらがな表記は「しゅし」です。最後の「し」を「シ」と読むのはよいですが、次の「ゅ」に対応する音は何でしょう? ……よくわかりません。「しゅ」はひと固まりになって音を表しているので、「し」と「ゅ」に分けてそれぞれが何らかの音を表していると考えるのは変です。

拗音についてこうして考えてみると、声に出した音を「ひらがな表記での各文字を単位にして」区切る、ということが無理だということがわかります。「しゅ」のなかの「し」「ゅ」がそれぞれどんな音を表しているか、と考えるのは意味がありません。

拗音を扱えるようにするには、次のように考えればよさそうです。
“音の逆読み”とは、声に出したときの音を、「拍を単位にして」逆に辿ることである
「茄子は食わすな」なら、これは7拍で、拍ごとに見ると「ナ-ス-ワ-ク-ワ-ス-ナ」のように読まれるので、たしかに拍ごとに逆からたどると同じになりそうです。「趣旨」なら、拍で区切ると「シュ-シ」で、逆から読むと「シ-シュ」となります。回文にはなりませんが、拗音があってもちゃんと逆から読めるようになったので、“音の逆読み”としてはこのやり方が自然そうです。「趣旨」を音ルールでも回文と見なしたい、という方もいるかもしれませんが、残念ながら、私には「趣旨」を音ルールで回文と見なす理屈が思いつきませんでした。諦めましょう。

「拍を単位にして」の逆読み。これは自然で、一見よさそうなのですが、これもやはり一見の話で、微妙なところがあります。次の2つの反論はどうでしょう。

(1) たとえば「新聞紙」を考えます。これは、ひらがな表記ではもちろん回文になっています。さらに、音ルールでもとうぜん回文になっている、と多くの人が考えると思います。しかし、です。拍で区切った「シ-ン-ブ-ン-シ」の、ひとつめの「ン」とふたつめの「ン」は、音が違います。ふたつめは n の音ですが、ひとつめは「ブ」の前なので m の音になるためです。前から読むと「シmブnシ」、逆からたどると「シnブmシ」。ちょっと違う。では「新聞紙」は音ルールによる回文ではない、ということにならないでしょうか。

(2) たとえば「さっきの喫茶」を考えます。これは音ルールで回文でしょうか。拍で区切った「サ-ッ-キ-ノ-キ-ッ-サ」の、ふたつの「ッ」に注目します。声に出して「サッキノキッサ」を読むと、ひとつめの「ッ」は無音なのに、ふたつめの「ッ」のところでは、次の「サ」の子音を先取りして、s の音が出ているはずです。よって、前から読むと「サ キノキsサ」、逆からたどると「サsキノキ サ」。ちょっと違う。ということは「さっきの喫茶」は音ルールによる回文ではない、ということにならないでしょうか。

この(1)(2)の問題はちょっと厄介です。どう解決すればいいでしょう。「趣旨」と同じように、思い切って「新聞紙」や「さっきの喫茶」も、音ルールで回文とみなすのを諦めたほうがよいでしょうか。かなり躊躇を感じますが、いっそそうしてみてもいいのかもしれません。でもそうすると、この(1)や(2)と同じような問題が、ほかの回文でも生じていないのかが気になってきます。たとえば、「竹やぶ焼けた」が音ルールで回文になっているのかどうかは、どうやって判断したらいいのでしょう。「竹やぶ焼けた」は音ルールでも回文になっているような気がするけれど、最初の「タ」と、最後の「タ」は、本当に同じ音なのかどうか。それを判断する方法がなさそうな感じがする。「新聞紙」や「さっきの喫茶」を音ルール回文と見なさないことにすると、何が音ルール回文なのかわからなくなりそうです。

音ルールというものを擁護するには、この理屈に再反論せねばなりません。

音素という概念


「新聞紙」を音ルール回文とみなさないこの理屈は、それを発音したとき実際に出ている物理的音声「シmブnシ」に着目したものでした。でも、二つの「ン」は、実際に出ている音声は違っていても、ふつうの日本人なら、これを区別してはいないのではないでしょうか。問題にすべきは、実際に物理的に出ている音声の話ではなく、もっと“抽象的なレベルの”音なのではないでしょうか。

すると、問題は、この“抽象的なレベルの”音とは何か、ということになります。この“抽象的なレベルの”音は、「新聞紙」のふたつの「ン」や、「さっきの喫茶」のふたつの「ッ」を、同じものとみなせるような概念である必要があります。

実は、そのような概念が、言語学において考えられています。やったー。

それは「音素」という概念です。

音素とは何かといいますと、ものの本には(窪薗晴夫『日本語の音声』岩波書店)
音素とは、その言語において意味の違いを作り出す最小の音声単位である。
とあります。どういうことかといえば、たとえば日本語の「ハ」と「ヒ」のそれぞれの子音は、じつは別の音なのですが(国際音声記号で[h], [ç])、「ハ」の子音と「ヒ」の子音を仮に入れ替えて発音したとしても(不自然に聞こえることはあれ)言葉の意味の違いを生じません。そこでこれらの子音は、「音素」としては同一であって、それが実際の音声としては異なる表れ方をしているのだ、と考えるのです。

同様に、「新聞紙」のふたつの「ン」は、実際に出ている音声は違うものの、仮にその音声を取り換えたところで(不自然に聞こえることはあれ)意味に違いは生じないので、音素としては同じ、ということです。「さっきの喫茶」のふたつの「ッ」も、実際に出ている音は違うけど、音素としては同じ、というわけです。

日本語の音素の種類はどれだけあるかというと、『日本語 新版(上)』(金田一春彦、岩波書店)では次のようにまとめられています。
母音 a, i, u, e, o
半母音 j, w
子音 k, s, c(ツの子音), t, n, h, m, r, g, ŋ(ガ行鼻音の子音、これを使わない人もいる), z, d, b, p
特殊音素 N, T, R
特殊音素は、Nが撥音「ン」、Tが促音「ッ」、Rが長音「ー」に対応します。この音素の記号で「新聞紙」を書けば「siNbuNsi」、「さっきの喫茶」は「saTkinokiTsa」となります。

音ルールとは何か


音素についていろいろ書きましたが、「茄子は食わすな」を回文と見なすときの“音の逆読み”は、「音素表記を逆からたどる」という意味でもありません。実際、「茄子は食わすな」の、上の記号での音素表記は「nasuwakuwasuna」で、逆からたどっても同じになりません。ではどうすればよいかというと、拍を単位にして「na-su-wa-ku-wa-su-na」と区切ってから逆読みすればよいでしょう。「新聞紙」「さっきの喫茶」も、音素表記してから拍で区切って「si-N-bu-N-si」「sa-T-ki-no-ki-T-sa」とすれば、たしかに回文です。

ということで、長々と書きましたが、「音ルールは何か」という問いに対するこの記事での答えは、次のとおりです:
音ルールによる回文とは、「拍単位・音素表記回文」である。

……「音」の逆読みの話だったのに、「表記」が出てくるんかいな? と疑問の方もおられるかと思います。が、落ち着いて考えれば、空気の振動である音それ自体に、「逆読み」というものが存在するわけがありません。逆読みを考えるには、何らかの仕方でその音を記号化せねばならないはずです。音ルールといえど、表記からは逃げられないのです。

長くなりましたので、以降は次回に。「拍単位・音素表記回文」について詳しく説明する予定です。

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