2019/01/30

回文関係者に聞く(9) 伊川佐保子さんの巻

さまざまな回文関係者に話を聞いて回文世界の奥深さを知るコーナー、略称「回文関係者に聞く」第9回は、伊川佐保子さんです。2月1日に「ほんやのほ」という小さな書店を開く伊川さん、詩的な回文の作り手でもあります。たとえばこんな感じ。
仮名か図鑑 ほら
片手召し 果てへ
栞教えて 初めてだから
本 微かな香
罅ワレの作るようなのとは、かなり様子の違う回文で、だからこそ聞きたいことがたくさんあるのでした。回文のことや本屋のこと、あれこれを、薄暗いけれど温かみのある開店前の店内で伺いました。



伊川(伊) 回文を初めて知ったのはとても小さいときだと思いますが、「回文は自分でも書けるものなんだ」と認識したのは、大学時代に、福田尚代さん の作品を見たときです。美術大学の恩師に、美術作家としてこの人は見ておくべきだと教えてもらって、展示を観に行きました。展示もすごくよかったのですが、そこで売られていた回文集を見て、回文が言葉としてこんなに綺麗で面白いんだと思いました。
罅ワレ(罅) ここに持ってきていただいているのがそのときの回文集ですね。『福田尚代初期回文集』(2007)からひとつ引くと、こんな感じ。
素通り 君見ぬ牡蠣
通るは奇怪なり
聞か猿さ
限りない牡蠣割る音
聞かぬ耳 切り落とす
伊川(伊) それで、「自分でも書けるかも」と思うと、やってみたくなりました。やってみたら、意外とできるぞ、と。当時書いていたものがちゃんと成立していたかはわからないのですが、思考の仕方がわかって、日によってはずっと回文を作っていました。
 福田さんの回文は、どういうところに惹かれたんでしょうか。
 私の好きな、幻想文学の言葉づかいになんとなく近い。言葉の透き通っているような感じ。浮世離れしている言葉や、綺麗だけど日常的でない不自然な言葉。それから、ひらがながすごく好きなのですが、福田さんの本にはひらがながたくさん出てくる。
 回文の読み仮名のところですね。
 そうです。紙面を見ているだけで、すごく綺麗だなと。読み仮名のところで音の柔らかさが見え、漢字を使った部分に非日常的な意味の美しさがある。私もこんな言葉を使ってみたいと感じたのかもしれない、と振り返ってみて思います。私は小説を書くのも好きですが、物語を構築する力がないので、綺麗な言葉を並べたててみることはできても、幻想文学は書けません。日常からすこし逸脱したくらいのことしか書けない。でも、“飛んでいる”ものを書いてみたいという願望を、回文は満たしてくれます。
 一日中作ることもあるくらい没頭されていたということですが、発表の場はあったんでしょうか。
 いえ、まったくないです。最初に100個くらい作って、恩師や母親に見せたりはしましたが、ネットなどでの発表はありませんでした。
 なるほど。その後どういう変化が?
 本屋を始めることになったとき、たまたま「回文が好きだ」と人に話したところ、「それは面白いね」と言ってもらい、Twitterでツイートしたりするようになりました。この数か月です。それまでは、回文が好きだと周りに言う機会もありませんでした。
 回文に興味がありそうな人も周りにいなかった?
 いないですね。回文を作っている人をネットで調べたりすることもなかったです。
 完全に福田尚代さんだけ?
 そうです。
 福田尚代さんの活動はその後も追いかけていますか。
 全部ではないですが展覧会があれば観に行ったり、新しい回文集を買ったり。「ほんやのほ」では福田さんの本も置かせてもらう予定です。(注:開店日には入荷が間に合わないそうです)
 他所の書店には手に入りにくい本も置かれることになりますね。
 でも福田さんの本は売り切りのものが多くて、在庫なしというのがほとんどで、残念な気持ちもあります。持っているほうとしては嬉しいですが。

連想ゲームのような本屋


 すこし回文を離れて、本屋を始める話を伺いましょうか。
 もともと本屋が好きで、「プリキュアになりたい」みたいなノリで「本屋さんになりたい」と、ここ10年近く言っていました。でも憧れどまりで、ふつうに会社員をしていたんですが……会社員よりは、やっぱり本屋をやるしかないかも、みたいな気持ちになってしまって。
 (笑)
 論理的な説明をするのが苦手なので、難しいんですけど。
 思ってしまったんですね。
 双子のライオン堂さん(注:赤坂にある本屋)の本屋講座に出たりして、やる気になってしまいました。とはいえ、こんなに急にやるつもりはなかったんですが、この物件を見つけてしまい、自分のなかで喚起されるものがありました。「めちゃくちゃ面白い」と。だから、「計画の果てに満を持して」というのではまったくなく、「つい決めてしまったから、やる」という順番です。衝動性が強いほうなので。
 どういう本屋にしていきたいですか?
 本を売ることで大成功を収めたい、みたいなことは思っていません。と言うと、売る気ないのかと思われそうで難しいですが……。本屋という形で、本や言葉という私が好きなものについてどんな面白いことができるか、構想して、試すことを繰り返したい。だから、堅牢な計画を立てるよりも、いろいろな要因に左右されたいと思います。「こういう人とつながったから、こういうことができる」とか、「こういう場があるから、こういうことを足してみたらいいかな」とか。そういう連想ゲームでつなげていくほうが楽しいなと。回文もそうじゃないですか。
 ほんとだ。
 ひっくり返したらこれが見えてきたから、つなげる。それが面白いと思っているので、そういうことはどんどん試したい。この店に来た人にとっても、なにかしら喚起されるものがあるといいなと思います。それがアウトプットとして小説や回文や絵につながったり、アウトプットされなくても、その人の中で何か小さな変化があったり。そういう場所になるように、まじめに取り組みたいと思っています。
 楽しみですね。
 どんだけ大口叩いてるんだっていう感じですが(笑)
 始まる前だから言えること、大事ですよ。
 そうですね、今しか言えないと思うので。
 何か面白い計画があったりしますか?
 たとえば、ゲーム性があったら面白いな、と。このあいだ人と話していたのは、購入する本5冊のタイトルがしりとりで並んだら5パーセントオフ、とか。
 奇抜ですね(笑)
 面白いかもしれないけどまだわからない、ということを試したいので。5冊あると1冊くらい興味のない本が交じると思いますが、その本が意外と面白いかもしれない。そういう遊び半分みたいなことをちょっとずつ試していこうと思っています。
 回文と関係することは何かしようとしていますか?
 「もっとみんな回文書いたらいいじゃん」と思うので、ちょっとやってみたいという人を、えいっと引っ張るような活動がしたいと思っています。小学生のときに、100マス計算とか、いろんな思考の仕方を体験しますが、そういうもののひとつとしても回文は楽しい。作り方は私が教えられるようなものではありませんが、始めることは伝えられるので。


コントロールできなさが面白い


 福田さん以外の回文を読むことはありますか?
 いちおう最近、知識として読もうとしています。たとえばこの本は、持っていたほうがいい、と言って知人がくれました。
 村上春樹『またたび浴びたタマ』ですね。
 でも、福田さんの本も、熟読ではなくて、なんとなく見ている感じです。たまに開く、眺める、閉じる、それだけでどきどきして幸福な気分になる、みたいな。それですぐに触発されてしまうので、実は読んだ時間より、それをもとにして書いている時間のほうが長いかもしれません。
 福田さんの回文を熟読している、という人はあまりいないような気がします。どれかの本に、6000字くらいある回文が載っていますが、それを一字一句読んだ人はたぶんいないだろうなと。言葉の雰囲気を楽しむものなんでしょうね。
 言葉から浮かび上がってしまう何かを眺めている、という感じ。
 福田さんの回文、逆から読んだりします?
 回文かどうか確かめる、ということですか? しないですね。
 やっぱりそうですよね。そうすると、回文であることにどういう意味があるのか、が気になります。逆から読んで同じだ、というのとは違う面白がり方をしているわけですよね。
 そうですね。
 もし一文字間違っていて回文ではなくなっていたとしても、問題ない。
 「回文だから、コントロールされきっていない」というのが約束なんだと思います。回文は、作者から出ている部分もあるけれど、コントロールしきれないものとの何らかの関係性――拮抗なのか融和なのか――をもって作られている、というのが唯一ある約束。そういう装置の中でやっていることが、回文であることの重要さだなと思います。
 福田さんや伊川さんの回文は、たしかに、コントロールされなさを楽しんでいるので、あまり意味を考えていないように見えますね。ふつうは回文を作るとき、意味を通したくなって苦しむ。でもそういうことから自由なのが面白いなと。
 文法的に通らないのはよくないと思っています。意味が通らないのも、本当はよくないのかもしれないですが……。たとえば、「ゆったりくつろぐ」という表現は普通ですが、「しっとりくつろぐ」だったら、見た人は「どういうことだろう」とちょっと考える。考えていると、解釈が生まれる。そういう、自分が思っていたのと違うズレが、回文だと勝手に出てくる。そのコントロールできない葛藤が面白い。コントロールしきれたら興味がなくなる気がします。
 回文がどこで「完成」になるのかも気になります。回文に意味を求めて作っている人は、意味がそれなりに満足のいく形で通れば「完成」となりますが、そうでない人は、どこで「完成」にするのか。
 たとえば、『しししし(注:双子のライオン堂が製作・発行する雑誌)Vol.2に載せた回文は、先にドストエフスキーの『罪と罰』という物語が用意されていて、その物語をイメージしながら回文を作っているので、その要素に少しでも近づくことを目標にして書きました。でも、だいたいの回文はテーマを決めて作るわけではありません。そういうものについては、ひとつの終わりを見たとは言えるかもしれないけれど、完成はしていないと思います。
 なるほど。
 年末に暇だったので、今まで書いた回文をくっつけて note に公開したりしました。くっつけてみると、私「犬」って好きだな、とか、気づいていなかった連続性が見えてきたりして面白いです。あとで思い返して一部分を直してみる、ということもよくやります。これで字面が綺麗だから動かしたくない、ということもありますが。

実験したい


 自作でとくに気に入っている回文はありますか?
 あんまりないんですが(笑)。あ、でも、「ほんやのほ」の名刺の裏の回文は、「意図」が通ったなと思って。「意味」じゃないですよ。「ほんやのほ」という言葉の意図が含まれている回文になったかなと。


 たしかに、名刺に書かれるべき回文という感じ。
 いいところに落ち着いたなと思います。これがパーフェクトかと言ったらそんなことはないですが、それを求めてもしょうがないなと。
 完成がない、という話ですね。
 仮名にどの漢字をあてるかも、動かせるから面白い、と思うくらいです。三通りのあて方があれば、できることならそれを全部書きたいくらい。そうしたら、それぞれ違うものが見えてくるじゃないですか。最近ムンク展に行ったんですが、ムンクって、同じテーマの絵をたくさん描いている。中心にいる人が違うだけでタイトルも違うし雰囲気も違う。そういう試作みたいなことが私は好きです。到達したいというより、実験をいろんな形でやりたい。
 濁点を無視してよい、というルールでやられていますが、それもだいぶ世界を広げますよね。
 そうですね。邪道だとしても、そちらのほうが広がる。
 伊川さんのような回文との付き合い方だと、そのほうがルールとしては自然なのでしょうね。邪道とかではないと思います。
 パーフェクトさを欠く、ということにはなると思いますが。
 いろいろ試したいという目的からすると、ぜんぜん問題ないですよね。伊川さんからは、たとえば私の回文はどう見えるんでしょうか。
 すごく真っ当な感じ。ユーモアの領域をすごく真面目にやるとこうなるんだろうな、と。
 褒められているのかどうなのか(笑)
 パーフェクトを目指してやっているということ自体すごいことで、なんというか、びっくりします。
 ありがとうございます、なのかな。私の回文と伊川さんの回文はある意味で真逆ですが、それが同じ回文という制約から出てきているのは面白いですね。
 そうですね。

世界は広いのだ


 読者へのメッセージなどありますか。
 「怒らないで」、と(笑)
 ははは(笑)
 冗談ではありますが、ほんとに不安です。自分の回文は、いちおう回文だけど、なんか違うなと。日陰でやっていたので、急にいろんな人がいることを知って、「世界は広いのだ」みたいな気持ちになっていて、怖いです。メッセージでもなんでもない、ただの怯えですね。「勝手に布教活動とかしてるけど、怒らないでー」って感じです。
 そのとおり書いておきます(笑)
 このあいだ、詩をみんなで持ち寄って読む会に行ったとき、私は回文を持って行ったんです。


これをみんなが詩として読んでくれました。でも、詩は詩で書けないんですよ。詩でもなく、純正回文でもないから、「妖怪人間」みたいな気持ちです。
 いえいえ、堂々と回文と言ってください。「ほんやのほ」も布教活動も、楽しみにしています。

[2019年1月談]


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