2015/08/10

[016] 回文と回文体(2)


よく分からないけど記憶だと、過失と被害なんか湧く思惑がだんだん細工に起因し、居ながらにバトルさせうる由が何か短いならば、坂を指しながら唸る日にもニヒルなうら悲しさを嵩張らないか地味かに流し夜失せ去ると、バニラが内心生きにくい算段だが、詳しく分かんないが一つ確と抱く置時計なら渇くよ。

[よくわからないけどきおくだと かしつとひがいなんかわくしわくがだんだんさいくにきいんし いながらにばとるさせうるよしがなにかみじかいならば さかをさしながらうなるひにも にひるなうらがなしさをかさばらないかじみかにながしよるうせさると ばにらがないしんいきにくいさんだんだが くわしくわかんないがひとつしかとだくおきどけいならかわくよ]
(旧版:(161) 2009/1/4修正)

アカギレ先生の回文体講座第2回、音声は入手したものの、テープ起こしがまだ終わってないので、今回は別の話を。

回文体には、語彙の面での特徴(一人称は「わたし」が多い、など)と、構文的特徴(助詞が脱落しやすい、など)とがあると思います。語彙に特徴があることについては、当たり前と言えば当たり前かもしれません。回文に出てくる語彙には、「逆から読んだ文字列がその回文に含まれねばならない」という制約があるために、逆から読むとレアな文字の並びになる語彙は、当然回文には出てきにくくなります。

でもこの観点からすると、回文体の構文的特徴「格助詞が脱落しやすい」というのはちょっと不思議な感じもあります。「が」「で」など、逆読みしたものはぜんぜんレアな文字列ではないのに、どうして脱落してしまうのでしょうか。

その理由は、ひとつには、格助詞には種類が少なく(10個くらい)、回文を上手く成立させるものが見つかる可能性が低い、ということがあるでしょう。また、格助詞を使うときに文に課される「構文的な制約」も大きな理由だと思います。格助詞は、それを受ける述語と密接な関係にあり、たとえば「探す」という述語を持つ文には、格助詞「を」がどこかに出てくると期待されます。回文で述語にちゃんと対応している格助詞を適切に入れるのは大変です。逆に、回文を作っている途中で、述語を入れる前に格助詞が現れたとしたら、それを適切に受ける述語がやはり必要になり、これもなかなか大変です。

回文で格助詞を使おうとすると、こうして構文的な制約がかかっているうえで、回文の意味を通じさせないといけない、という苦しいことになります。でも、格助詞はなくても文の意味はどうにか通じる、というケースはけっこう多いため、構文面では妥協されて格助詞が脱落する、と考えることができます。似たような理屈が接続助詞などにも成り立ちます。(でも終助詞については状況がぜんぜん違います。終助詞はたいていの文に勝手につけられて、文の他の部分に何の制約も課しませんし、文の意味もほとんど変えないから。)

回文には助詞がなかなか入らない、ということになると、文を長くするには名詞の羅列くらいしか方法がなくなり、回文では1文が妙に短い、という現象も生じてきます。

そういうわけで、回文が回文体になるのはある意味で自然なことなのですが、素直でない私は、意味的制約を完全に無視し、格助詞・接続助詞などに頑張って気を使って長い回文を作ったらどうなるか、ということをやってみたくなりました。それが上記の回文です。が、見ていただければ分かるとおり、これはいったい何が面白いのかわかりませんなあ。作るのが面白いだけであったことよ。意味を重視して回文体になるほうが間違いなくよいでありましょう。

2 件のコメント:

  1. 旧作のときの出だしは覚えていたので何処が変わったのかなと思ったら
    かなり長くなっていてびっくりです。覚えていないものだなぁ。
    と言うのはきっと、意味も通っていて文のテンポもよい方が覚えやすいってことなのでしょう。
    それはさておき、こういう作り方の回文も自分もたまにやるんですけど、
    案外頭の片隅に回文のかけらが残っていて後で役に立ったりしますよね。
    経験値ががっつりとたまる感じです。
    まあ、いろんなつくり方をするのはよいことだ、ということで。

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    1. この回文は私も、旧作のほうですら「よく分からないけど記憶だと」しか記憶してません。長さのわりに、そこしか見どころがないということでしょう……。当然のことながら、意味の大事さを感じますなあ。
      たしかに回文に使えそうな語彙の発見はできそうですね。回文体でない回文を作る基礎体力もつくかもしれません。あと、こういうタイプの回文は自動生成向きな気がしますので、自分の頭で作りながらそのアルゴリズムを妄想する、という楽しみ方もあります。

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