2015/11/25

[030] 呪文と回文


サラヤン? カラヤン? 名前……
ま、なんやらかんやらさ。

[さらやん からやん なまえ
ま なんやらかんやらさ]
(旧版:(131) 2008/8/30

上記の回文は、kawahar氏(回文師)による
イノリイ?イリノイ?
というのに影響を受けています。「イノリイ」はそれ自体では意味のない文字列ですが、「イリノイ」の覚え違いとする、というアイディアによってそれが単なる無意味な文字列ではなくなっている、という不思議な回文。

回文を作ろうとして言葉をひっくり返すと、それ自体では無意味な文字列になるのが普通です。それをどうにかして意味のある文に仕立てるのが回文作りの重要なプロセスですが、回文を作っている人はしばしば、意味のない文字列を意味がないまま回文に組み込みたい衝動に駆られるらしく、たとえば、呪文回文とでも呼ぶべきものがいろいろな人によって作られています。「滅びの呪文:モュ・ジノビロホ!」みたいなの。私が真っ先に思い出すのは、中村航さんによる これ です。すごいインパクトだ。

このたぐいの呪文回文と、イノリイ回文とは、無意味な文字列を含んでいるという点では同じなのですが、イノリイに比べて呪文のほうは腑に落ち具合が劣る、という感じがしないでしょうか。この差は何に発するかと考えると、カギは、無意味なその文字列にどれほどの必然性があるか、という点であろうと思います。たとえばイリノイと同じ構造で「ペンシルベニア? アニベルシンペ?」とやってもぜんぜんダメです。「イノリイ」はイリノイの覚え違いとして「イノリイ」でないといけない必然性があるのに、「アニベルシンペ」はその7文字であることに何の意味もない文字列(単に全体を回文にするためだけの文字列)なのです。逆に、呪文は呪文でも、「滅びの呪文:ラミパスバルス!」がもし仮に回文だったとすれば、意味のない文字列であることに変わりはないけれど、呪文としての必然性があるのでかなり印象は違うでしょう。

昔考えたアイディアで、当時はイマイチだと思ってたけど今になって考えるとなかなかよいかもと思うものに、次のようなのがあります。
「汰しまりあで砥悟揮での碑るあなきてすたしとっ比がみのん」検索。3件のみがヒットした素敵なある日の出来事でありました。
これは超絶にナンセンスな文字列ですが、この記事を執筆している時点でGoogleでこの文字列を検索するときっかり3件がヒットするという点で、そこそこの必然性がたしかにあります。文字をちょっといじるだけで4件とか0件とかになり、他の文字列に容易に置き換えがたい。この文字列はこの文字列であるべきだ、という気分にさせてくれます。また、現に自分がこの文字列をGoogleで検索していることで、この文字列に妙に「実在感」が感じられます。意味はないかもしれないけどこの文字列はちゃんと世に存在しているのだ、だから回文に組み込むもよし、という気分。

たとえばWikipediaの回文の定義には「言語としてある程度意味が通る文字列のこと」という条件が含まれていたりします。回文において意味は重要だと一般にはみなされていそうだし、私も実際そう思いますが、いろいろな事例を考えると、どういう場合に意味があってどういう場合に意味がないのか、どこまでのナンセンス文字列が回文としてOKでどこまでがそうでないかは微妙な問題で、意味を回文の定義にまで含められるかはよくわかりません。「ゴペジャデニカカニデジャペゴ」は意味がなさそうだけど、これは自分の考えた呪文なのだと作者が主張すれば、それはそれで意味が通っていると言わねばならない、ような気もする。なので、私のとる立場は、「意味が無い文字列を含んでいても回文と考えてよい。ただし、その文字列に必然性があるほど回文としての出来は良いと考える」というものです。無意味な文字列に必然性を持たせる方法を案出するのはそれだけでけっこう楽しいもので、もっといろんなアイディアが出てくるとよいなあと思っている次第。

同様のことが、「無名の人名が出てくる回文」をどう考えるか、という問題にも言えそうです。それについては今後また書く機会があるでしょう。

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