2016/11/13

回文関係者に聞く(6) りゅうさんの巻

回文関係者のお話を通じて、回文の多角的理解を目論む(たぶん)インタビューコーナー「回文関係者に聞く」6回めは、りゅうさんです。徹底して自然な日本語を目指すりゅうさんの回文は、新しい領域を切り開いた感があると思っております。そのりゅうさんに、西荻の喫茶店でほろ苦いアイスコーヒーを飲みながら、いろいろ伺ってきましたよ。

りゅう(り) 小1のときの学芸会でほかの学年が回文劇をやっていました。それで回文を知ったんです。
罅ワレ(罅) レアですね。
 2回上演していたから、わりとちゃんと記憶に残っています。森の動物達が回文を作ってコンテストする話なんです。「トマト」とか「新聞紙」とかをみんな作ってくるんだけど、最後に来た動物が回文を忘れて泣いちゃう。「私負けましたわ」って言って。そうしたら「長いですね、優勝!」というオチ。みんな面白がって観ていました。
 たしかに面白そう。
 その後、目につく単語を友達とひっくり返して遊んでいました。歌詞を逆さから歌ってみたり。でも回文を作るほどのことはせずに、実際に作り出したのは、時を経て18, 9歳のころ。
 飛びますね。
 回文のことは忘れていたんですが、伝聞で「アニマルマニア」とか「寝室まで至らず裸体で待つ紳士」とかを聞いて、すごいなと思って。そういえば単語をひっくり返して遊んでたなと思い出して、作れるかもと思っていちからやり始めたんです。一緒に面白がってくれる友達がいて、メールでいろんなのを作ってはやりとりしました。作るというより発見して喜んでいた感じですね。有名な回文だけど、「死にたいタニシ」とか「飛び込む小人」とか。「死にたいタニシ」が自分のなかでは衝撃的で、タニシが小さい体で「死にたい」とか言うんだなと思って、3日くらいずっと笑っていましたよ。暗いでしょう(笑)。支離滅裂なのもいっぱい作っていました。あまり覚えてないけど、
中澤カビ取りハイター 対 針飛び川魚
とか。友達とメールで「それやばいね笑」みたいな。
 感覚を共有できる友達がいたのはいいですね。
 すごく狭いところでやっていました。ネットは本能的に見ないようにしていたかもしれません。発見が面白いのに、見て分かってしまうと楽しみが半減してしまうように思えて。
 その気持ちはわかります。
 子どもが砂遊びしているみたいに、発掘している感じが面白かった。その当時は、今まである回文の情報はないほうが楽しめたんですね。そのあと、mixi全盛期の時代に、mixi日記に回文を出し始めたんです。そうしたらみんなぎゃあぎゃあ喜んでくれて。それが、このあたりの回文です(りゅうさんは自選お気に入り回文リストを持ってきてくれたのでした)。
草に香り揺らし 白ゆり丘に咲く
奇跡の美 豊かな体
なだらかな肩 指の軌跡
人に見せることになったので、だいぶ上手くなったというか、支離滅裂な感じはなくなっていったかなという感じがします。でも3, 4年くらいやって、もうネタ切れで無理って思ったんです。ちょっと大袈裟なんだけど、でもみんな通る道ですよね。
 そうですね。
 mixi時代に回文を読んでくれたのは、回文を作っていない人たちだったんですが、その中でもダメ出しをしてくれる奇特な人がいました。「これいいんだけど、途中で口語が文語に変わって違和感あって冷めちゃう」とか。濁音のことも言われましたね。濁音(清音と濁音の同一視)をたまにやると、「濁音OKなんだ? ふーん」みたいなツッコミが入って。当時、回文の濁音変換がOKなのかダメなのか知らなかったんですが、読む人にそういうつまらない疑問を持たれるなら、やらないに越したことないのかな、と思ったり(笑)。回文をみずから作ったりしない方って意外と厳しい目で見てるんだなーと。
 そういうことありますよね。
 ネタ切れ後、2, 3年くらい、ほんとに作っていませんでした。でもその後Twitterを始めて、回文を作っている人たちがいるんだということを知って、血が騒いで「わたしもできます!」って輪の中に入ったんです。そうしたら、その時点まででやり切った気がしていたんですが、案外いろんなものができて、やっぱりひとりで狭く作ってちゃいけないんだなと思いましたね。

りゅうさん自作を語る


 Twitterで印象的だったのが、ムスカ回文を出したとき。
ムスカ燃え、死に逝く音がする。
バルスが遠く、いにしえも霞む。
たまたま友達の家にいて、テレビでラピュタを観てる途中で「そろそろ帰んなきゃ」と。電車でこの回文を作って、「そろそろバルスかな?」というタイミングでポンて出したんですよ。そうしたらバーっと100リツイートくらいしてもらえて。きっかけと内容次第では広まるものは広まるんだなって。この回文自体は、好きかどうかって言ったら微妙なんですけど。ムスカ燃えてないし、バルスが遠くってどういうこと? いにしえ霞んだかなあ? って(笑)
 でも雰囲気は伝わってくるんですよね。
 そう、雰囲気雰囲気(笑)。みなさんがいちばんいいってくださる回文はこれですね。
憎悪と愛はいつも似てた
通夜を待つ父
妻を殺った手に持つ位牌
後追うぞ…
これは「できた」っていう気がする。作るとき、まったく悩まなかったんです。いつもどおり、とりあえず助詞をいっぱい入れようと思いました。日本語として普通に読めないと、「回文って読みにくいよね」っていうガッカリな反応があって(笑)。それが悔しくて、なるべく普段何気なく使っている日本語で、本を読んだときにスラスラっと読める感じを目指しているんです。「憎悪」から始めて、その後にいろんな助詞をくっつけて、まず「憎悪と…後追うぞ」っていうのができたんだと思います。それで、「憎悪とあ…」ときたら愛でしょ、と。そこからあとは悩まずトトトンとできた気がする。あと、なるべく短い文の中にいろいろ詰まっているものが好きなんです。短文を読んで、ストーリーや風景が見える。この回文は4行でいろいろ複雑な情景が入ったなと思って。「通夜」とか「愛」とか、2文字なのに持っている意味が強いじゃないですか。ストーリーが作りやすくて使いやすい。
でも、「つ」が「っ」になっちゃってる。「っ」は自分が作るルールとして認めてるのでいいんですけど、していないものと比べると、「っ」やっちゃったなーって思います。頭おかしいでしょう(笑)
 いやいや、気持ち分かりますよ。
 回文を作るほかの方が気にしているのを見ると「ぜんぜん気にしなくていいのに」って思うんだけど、でも自分がやるとなぜか気になっちゃう(笑)
 この回文も面白いですね。「つ」もちゃんと「つ」と対応している。
お堅い通夜にオナラが鳴り
死を知りながらなおニヤついた顔
 また通夜が入っている。どんだけ通夜好きなんだよと。意味も分かりやすいし、ちょっと面白くて切なくて、ちょっと不謹慎。いろいろ詰め込めた感じがあるかなと。
あと、これとか。
嘘も吐いたし 哀しくなるわ
想い合うも もう愛も終わる
泣くし泣かした いつもそう
見たことがあるような回文だけど、うまいことまとまったと思います。3行の字数が同じなのも気に入っています。半字ずつ空けて、これが自分の中で見ため的に綺麗って思ったんです。点打つのも違うなと思ったし、くっつけると切れ目が分からなくて読みにくかった(笑)。それから、
再会はなく何処に彷徨う
まして駅もない旅よ
呼びたい名も消えてしまう夜
まさに孤独な徘徊さ
これなんですが、最近『君の名は』っていう映画を観たんですよ。そうしたら、この回文ぽい、と思って。
 あ、本当だ。「呼びたい名も消えてしまう」。今こそ「君の名は回文」と銘打ってもいいかもしれない。
 ちょっと孤独さが際立ちすぎる感じだけど、そして本編には駅はあったけど(笑)。回文を作った当時は「ちょっと意味分かんないけど雰囲気推しで」と思っていたんですが、ちょうどこの映画じゃん、と。
 雰囲気推しなところがある回文は、ご自身では違和感はないですか。
 いや、ありますよ。けっこう雰囲気で行っちゃってるな、みたいなのはあります。
 なるべく意味をかっちりさせたいと。
 でも、雰囲気推しでも自然に読めれば。そっちのほうが重要ですね。
 あ、この回文は初めて見るかもしれない。
夜が 夏と
月が 波と
手が 手と
皆がきっと繋がるよ
 これ、自作回文のbot だけに出したんだけど、botがぜんぜんこれをツイートしてくれないんですよ。けっこう気に入ってるのに。botが嫌ってるのかな。
 見ためが綺麗だし、列挙したあとの「皆」が効いてますね。
 「手が手と」は、作ったときに「あ、手でいいんだ」って思った気がする。
 2行めまでは自然の情景で、「手が手と」で人が入ってくるのがいいですね。
 ……「毛が毛と」でもいいのか。
 それはそれでりゅうさんぽい(笑)
 毛と毛、つなげそうでしょう。この回文は、ぼくのなかでは技巧なんですよ、同じ文の並びが反復するっていう。でも、技巧を得意とする方々がやっているSATOR式はじめ、本格技巧までいくとできなくなって。
 やればできるんじゃないですか。
 挑戦してみたこともあるんですが、苦しい感じになっちゃって(笑)。作る者すべての葛藤ですよね、「ちょっと苦しいけどなってるから許して」みたいなところと、「もっと行けるんじゃないの」というののせめぎ合い。


りゅうさんの自選お気に入り回文リストはこんな感じでした。



りゅうさんのわがままさ


 そういうりゅうさんのストイックさが、作られる回文の質に当然影響していると思いますが、作られるときにどのくらい時間をかけますか。
 ものによりけりですよね。作ってる途中に「これもう無理」と思ったら、とりあえず置いておくんです。素材はいいから気が向いたときに作ろうと思って、1年後に作り始めてみたり。諦めですよね。「運命じゃなかったんだ」と。
 いい言葉ですね。
 回文に対して期待してないんですよ。「所詮あなたってそうよね」「ぜんぜん上手くできてくれないよね」って常に思ってます。
 (笑)
 出す前に1日置いたりもしますね。とりあえず作っておいて、次の朝起きて読んでみて「なんじゃこりゃ」と思ったら作り直すし、「いいんじゃない」と思ったら出す。作ってるときはテンション上がってるから、何でもよく見えちゃうんですよ。
 わかります。りゅうさんの回文を見て感嘆するのは、「なんじゃこりゃ」というのがほとんどない、というか、見たことがないかもしれない。自分の回文を客観的に見るのって難しいから、よくそういうことができてるなと驚きます。
 ありがとうございます。その翌日チェックが大きいのかもしれませんね。作者なら作る過程で何度もその文に触れるから、完成した回文がおかしな文章でもすんなり読めちゃいますけど、初めてその文を読む人にとってはそうはいかない。一晩置いてから読むと、作ってるときに気付かなかった違和感に気付けたりします。なので「ここつっかえて気持ち悪い」とか「こんなぶつ切りの感じ、普通の文章ではありえないよね」と思ったら、作り直すかボツにするか。どんどんわがままになっていって(笑)。
 そのわがままさがりゅうさんの魅力なんだろうなと思います。
 わがままボディなんです(笑)。
 わがままになったのはmixi時代からですか。Twitterのあとから余計に?
 そう、そのあと余計に気難しくなってますよね。なんでもボツらせるし。
 わがままになっていくのには理由があるんですか。
 回文って、可笑しくて凄いものだと思うんですが、どこかバカバカしさも常につきまとっているように思えます。だから面白がってやっていたんですね。でも、出発点はバカバカしいものを、ものすごく真面目にやって究極にバカバカしさを追求したら、なにか違うことになるんじゃないかと。それと、回文の皮を被った普通の文章で騙してやれっていう気持ちがあるんです。「普通に読めました、悲しい話だね」「いや回文だよ」「え!?」っていう騙し(笑)。そういうほうに行ってしまったんですよね。

詩的なりゅう回文


 「ふつうの文章」を目指しているという点ですが、口語は使わずに詩歌的な感じを好まれますよね。
 そうですね。
 意識的にそうしたいと思っているんでしょうか、もしくは、そうなっちゃっているんでしょうか。
 どっちもだと思います。助詞が使えないことが、詩ということにしてしまえば許されるのではないか、とか。歌詞らしくするというのもそうです。たとえば、
泣いてみろ
ココロころころ 恋さようなら
占うよ
サイコロころころ 試みていな
意味分かんないっちゃあ分かんないんですけど、ちょっと歌詞っぽい。歌謡曲って1番2番とありますよね。それみたいに2回繰り返したら、おかしな感じも必然に映るんじゃないかと。あるいは、ブツって体言止めで切れちゃったら、それをもう1回繰り返してみると、そういうリズムで繰り返される文章なんだなって思ってもらえるかもしれない。そういういろんなごまかし方法ですよね。そうすると、なんとなく詩や歌のようなテイストになります。あと、詩歌って説明しすぎなくても成立するところがあるし。想像してもらって、ご自由に解釈くださいってことが可能なものなので、それも回文にうってつけかなと思うんですけど。……自分の最近の回文って、もうエンターテイメント性を無視してますよね。
 どういうことですか(笑)
 回文の面白おかしい感じから違うところに行っちゃってるというか。最初作ってたときの「これで誰かがプッて笑ってくれたら」という作品がない(笑)
 りゅうさんの心のうちには、面白さよりも、詩的な心象風景があるんですかね。
 そうですね、何かしらの雰囲気のある文章ができたらと思ってます。あと、回文を隠れ蓑にしている部分があって、「嘘もついたし哀しくなるわ」とか、ふつう言えないじゃないですか。詩を書けって言われても、ぼくは「やー恥ずかしい」みたいになってしまいます。でも回文というルールのもとだから自由に言える。不器用ですね、人間って。言いたいことは言えばいいのに、言えないから(笑)
 詩などは読まれるんですか。
 読まないですね。歌詞くらいかな。昭和歌謡が好きなのは回文に影響しているかもしれないです。3分くらいの短い時間の中で、何かしらのストーリーがキャッチーなメロディに乗って展開していく感じであったり。説明過多にならずに具体的な情景を描く、言い当てた感のある粋な日本語であったり。
 りゅうさんの回文とたしかに共通点がありますね。たとえば コジヤジコさん も詩的な回文の作り手ですが、りゅうさんの回文よりも抽象的な感じがします。
 コジャさんの作品はふんわり美しいですよね。確実な読みやすさと、読み手に委ねる優しい感じ。ぼくは「もう少しだけ言わせて!」みたいになりがちかも(笑)
 昭和歌謡以外で、りゅう回文を育んできたものはありますか。
 ラーメンズの小林賢太郎さんのコントはすごく好きで、確実に影響を受けています。
 言葉遊びがよく出てきますよね。
 「POTSUNEN」っていう一人お芝居で、アナグラムとかパングラム(いろは歌)とか、言葉遊びを使ったコントをやっていらっしゃって。この方、回文もやってらっしゃるんじゃないかなと勝手に思っています。パングラムって、濁音OKじゃないですか。でも小林さんは、コントの中で全部清音で、しかも綺麗な文を作られていて。
 それはすごい。
 真意のほどは分かりませんが、ショーのなかで「濁音はOKなんだよ」っていう野暮な説明を避けるために、そうされてるのかなと想像しています。濁音について葛藤してきた身としては、さすがだなと思って。弁解する気はないんだなと。Twitterなんかでポンて出すときは、出したものについて弁解する余地もないじゃないですか。だから、読んでくれた人から、清濁云々はじめ、回文であるということに関してのツッコミがないようにしたい。もちろん、濁音OKだと思う人もいれば思わない人もいる。でも、自分で「これはこうなってるのでOKなんです」って説明するのも違うなと思って。最初にmixiで回文を披露していた相手が、回文を作ってる方たちじゃなかったというのが大きいのかな。作ってる方たちと違う辛辣な目線をもっていらっしゃったから。
 鍛えられたわけですね。
 ですね。「ここ不自然だよね」「ですよねー、思ってましたー」みたいな(笑)
 回文仲間のなかにいると、そういう機会は得られないですからね。
 そうそう、みんな作るのが大変というのをお互い分かってるから、ダメ出ししてもらえないし、することもないですよね。

面白回文を作りたい


 mixi時代のこれとかは、今見るとあんまりりゅうさんぽくないですよね。
煮ると~? メンマ、2万メートルに!
 こういうシュールなのって、好きだけど、今は逆に作れないですよ。意味がどうとかを考えちゃって。この回文は初期衝動というか、作り始めたころに遭遇できちゃったもので、作るぞと思って作れるものじゃないんだろうなと。
 またこういうのも作れたら作りたいっていう気持ちはあるんですか。
 あるある。あるけども、大概の自分が知っている単語はひっくり返しちゃったし。みィさん の作品の華麗で素っ頓狂な面白さとかは、やろうと思っても真似できない。笑えるものを自分が作れなくなっているから憧れなんですよね。始めたころの、回文を面白がる感覚が蘇るというか。
 今後りゅう回文が進化していって、おもしろ要素が復活してきたりするということも。
 やってみたいんですけどね。自分の中で面白いと思っているのは、
根気で体当たり→
→カギ借りた→開いたで金庫w
関西弁は普段は使わないんですけど、この場合はあったほうがいいと思って。でも、これが限界です。おもしろボルテージ自分の中で振り切ってます。自然に読めるっていうのが第一条件としてあって、ちょっと小笑いできるようなものが作りたいけど、できるんですかね。「開いたで金庫」が限界だから(笑)
 きっとできますよ、りゅうさんなら。
 真面目な文語でも面白いものってできると思うんですけど、でもどうやるんでしょうね。見えないですね、次どうしようっていう(笑)

[2016年10月30日談]

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