2017/02/14

[042] 回文の定義(2)

「え、敵機?敵機?」って訊きてえ!

[えてききてっきってききてえ]
(旧版:(141) 2008/09/30

「竹やぶ、焼けた。」はなぜ回文なのか、という話の続き。この記事の下の方でようやく、今のところ私がベストと考える回文の定義を提案しております。

前回 の暫定的結論は、
この回文の本体はひらがなの列「たけやぶやけた」である。「竹やぶ、焼けた。」はこれを分かりやすくするための便宜上の表記、仮の姿にすぎない。
というものでした。標記の回文「「え、敵機?敵機?」って訊きてえ!」も、本体は、その下に書いたひらがな書き「えてききてっきってききてえ」のほうであって、「「え、敵機?敵機?」って訊きてえ!」のほうは、このひらがなの列の意味を明確にするための、親切のための表記にすぎない、ということになります。

この考えで行くと、回文の定義は
回文とは、ひらがなの列であって、逆から辿ったときに元と同じになるものである。
ということになりそうです。が、これでよいのでしょうか? この定義は認めがたい気がします。なぜなら、この定義だと、「たけやぶぶやけた」も「たけちびゑびちけた」も「たけらふぁおうぇはぇうおぁふらけた」も回文になってしまうからです。いや、これらも回文だと言い張って問題ないとは思うのですが(呪文だとか奇声だとか言い張れないことはない)、多くの人は回文に「意味」を求めているので、回文は単なる文字列なのだと主張するのは、現実に即していないと思われます。

それならば、ということで
回文とは、ひらがなの列であって、逆から辿ったときに元と同じになり、なおかつ意味があるもののことである。
という定義を主張したくなりますが、ただの文字の列に「意味」があるとはいったい何ぞや、という疑問を考えだすとやはりよく分からなくなります。「たけやぶやけた」という文字列には意味があって「たけちびゑびちけた」という文字列には意味がない、とはどういうことなんでしょうか。

文と表記


……こうして意味の問題にまで踏み込んでみると、ここまでの論において重要な誤りが犯されていたことに思い至ります。それは、
文とその表記とが区別されていなかった
ということです。これらを混同したことから話がおかしくなったのです。「竹やぶ、焼けた。」も、「たけやぶやけた」も、これら自体は単なる"文字列"のはずです。"文"ではありません。でも文と無関係なわけではなく、ある同じ文を「表記」した文字列になっているのです。何か共通した文Xが背後にあって、それを2つの方法で表記したのが「竹やぶ、焼けた。」および「たけやぶやけた」という文字列だ、というわけです。先ほど述べた「意味」についても、ただの文字列である「たけやぶやけた」に意味があるかないかを考えるのはお門違いですが、文Xのほうには意味があって、その文の表記が「たけやぶやけた」なのだ、と考えれば筋が通ります。

図で書くとこんな感じです。


文Xには「たけやぶやけた」「竹やぶ、焼けた。」「TAKEYABUYAKETA」などの表記があります。文Y(これは、竹やぶが笹やぶか何かに嫉妬している様子を表した文ですね)には「たけやぶやけた」「竹やぶ、妬けた。」「TAKEYABUYAKETA」などの表記があります。文Z(これは、「竹やぶ、焼けた。」と紙に書いてあるのを、句読点まで含めて声に出して読み上げたか何かした文でしょう)には「竹やぶ、焼けた。」「たけやぶてんやけたまる」などの表記があります。……と、このようになっているのです。文と表記が一対一に対応せず、多対多になっているところが、ややこしくも面白いところです。前回、「竹やぶ、焼けた。」のひらがな表記について反論者に言い負かされましたが、この図式を念頭におけば、そうなったのも当然だと思えます。「竹やぶ、焼けた。」と「たけやぶやけた」は、文Xを介して間接的につながっているだけなので、直接に一方から一方が出てくるように考えたのが間違いだったのです。

このような考え方については、『平凡社大百科事典』の「文」の項に分かりやすい説明を見つけたので、長いですが引用します。
……文とは何かについては、文法学者の数だけ定義があるといわれるほどで、……(中略)。近年の言語学では、論議を整理すべく、(話し言葉の場合)発せられる1回1回の具体的な音声そのものは文とは呼ばずにこれを〈発話 utterance〉と呼び、発話の背後に想定しうる抽象的なものとして文をとらえる、という考え方が有力である。たとえば、いろいろな人がいろいろな場面で〈この絵はみごとだ。〉と発することがあろうが、そのそれぞれの発話は、厳密にいうと、音声の細かな特徴がみな少しずつ違うはずで、また具体的に意味するところ――〈この絵〉が具体的に何を指すか、またそう発話する意図は何か(中略)――にも違いがあろう。が、こうした違いにもかかわらず、これら各発話を音声についても意味についても抽象して、〈この絵はみごとだ。〉という同じ一つの文(抽象物)を背後に想定することができる、と考えるのであり、この文・発話両概念の区別は確かに有益である。……
この引用文では話し言葉が想定されているので「発話」となっていますが、そこを「表記」に置き換えて読んでみてください。

ここで「文と表記を区別するって言ったって、そもそもその"文"の定義って何さ?」ということが気になる方もいると思いますが、上記の引用にも書かれているように、この問には言語学方面でも誰もが認める答はないようなので、これを考えるのは保留しましょう。そして、文という抽象物があること、文字列を使うと文をいろいろの仕方で表記できること、は認めてみましょう。すると、「回文とは何か」は霧が晴れたように分かります。

回文の定義


お待たせしましたが、ここで提案する定義は次の通り。
回文とは、文であって、その表記のひとつが「逆から辿ると元と同じ」という条件を満たすものである。
なんかものすごくアタリマエのこと言ってるように見えそう。でも、文と表記を明確に区別して記述した点が進歩なのです。たぶん。あと、「表記のひとつ」と言っているところも重要です。文と表記の関係が多対多なので、こう述べておかないといけないのです。

ただ、「「表記のひとつ」って言うけど、たくさんある表記のうちのどれのことか特定しなくてよいのん?」と心配する方もいると思うので、次のように定義したほうがなお明快だと思います。
回文とは、
・文と、
・その表記のひとつで、「逆から辿ると元と同じ」という条件を満たすもの
の組合せ(対、ペア)である。

この定義に従うと、「竹やぶ、焼けた。」という回文は、その背後にある文Xと、その表記のひとつ「たけやぶやけた」の組合せだ、ということになります。

では、「竹やぶ、焼けた。」という表記は回文にとって何の意義もない無用の長物なのでしょうか。そんなことはなく、次のような意義があると考えられます。文は抽象的な存在なので、我々にはそれを直接に名指すことができません。そこで、何らかの表記を用いて、背後にある文を読み手に「悟らせる」必要がありますが、ひらがな書きの「たけやぶやけた」だと文が悟りにくい。そこで、文を悟るのが容易であるような「竹やぶ、焼けた。」という漢字かな交じり表記を使って回文を提示するのだ、と考えられます。漢字仮名交じり表記とひらがな表記を併記する慣習は、すごく理にかなったものだと言えます。

回文のこの定義は、さまざまな種類の回文(漢字仮名交じり回文、ローマ字回文、モールス符号回文、等々)を一挙に記述できているところも利点だと思います。表記の仕方をひらがな書きに限ったのが、いちばんノーマルな回文、ということになります。これらさまざまな種類の回文について、次回述べることにします。

14 件のコメント:

  1. 「たけやぶやけた」が文ではない、というくだりで衝撃を受けました。多分今まで考えたことはなかったと思います。ご提案の回文の定義の主旨は分かったと思うのですが、やっぱり文の定義が保留になってるのが残念ですねえ。この文脈での「文」は以前でてきた「シニフィエ」と同じ意味ですか?

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    1. O太郎さんも考えたことなかった点を指摘できただけでも、この記事の価値がありそうです。回文は、回「文」というくらいなので、その定義は「○○を満たす文」というものであるべきだと思いますが、文の定義がどうやら難しそうである以上(文とは何かについて詳しく書いた文献がそもそも見当たらない)、そこは保留せざるをえないかなと思っています。シニフィアンは文ではなくむしろ「意味」なのだと思いますが、シニフィアンやシニフィエという概念が文という概念とどう関係しているのかは不勉強ゆえよくわかりません。すいません。誰か教えてくれないかなあ。

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    2. シニフィアンって書いたとこシニフィエの間違い。

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    3. ごめんなさい。やっぱりご主旨分かってないかも...。「竹やぶ焼けた」は「竹やぶ、焼けた。」と同じく文Xの表記の一つですか?それとも別の文の表記ですか?

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    4. 同じ文の表記です。「竹藪やけた」「タケヤブ、ヤケタ!」「竹やぶ、焼けた…」も同じ文の表記だと思ってます(ここはあまり確信はない)。「 竹やぶ焼けた?」は違う文だと思います。なんでかは明確には説明できない……

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    5. 私、混乱してます。同じ文の表記かどうかはどうやって判別するのでしょうか。それが分からないとある文字列が回文の表記かどうか判別できないということになると思いますけど違いますか?

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    6. 同じ文を表すかどうかは「直観的に」判断する、としか今のところ説明できません。文の定義が現状曖昧なのでしょうがない。
      ところで次のような問題はどう考えますか。「涙落ちた騎手、遅く来る。」は、あるひらがな書きをすると実は逆から辿って同じになるのですが(るいらくちたきたちくらいる、と読む)、そうすると「涙落ちた騎手、遅く来る。」という文は回文と考えてよいか。単に「文字列とそのひらがな書き」という考えだと、こういうのはすごく考えにくくなるように思います。

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    7. えーっ、じゃあ「竹やぶ、焼けた。」が回文かどうかは直感的に判断するしかない、ということになってしまいますけどいいんですか?
      私への問いですが、何を意図して持ち出してきた話かちょっと分かってないかも。前に「文法遵守は暗黙の掟」みたいな話がありましたけど同様にひらがな書きも日本語のルールに則てないと読む人の納得が得られないですよね、という回答でいいですか?

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    8. 「直観的」と言ったのは、「なんとなく」みたいなことではなくて、文字列を論理的に分析したりしなくとも、当該言語がわかるひとなら、それがどういう文を表すかはただちにわかるでしょう、ということです。記事の中では「文」の正体について言及してないので、2つの文字列が表す文が同じかどうかの判定については「直観的に」というしかなくなってしまいましたが(そして当該言語がわかるひとの間ではそれで問題ないと思っていますが)、本来ならば、文とは何かを明確にし、文字列が表す文を決めるやり方もはっきりさせられたほうがよりよいとは思います。
      文とは何かについてちょっと考えてみるに、文は少なくとも、単語の列の情報と、さらにその列のなかの単語どうしの修飾関係の情報を持っていることが必要そうです(これはいわゆる句構造文法というので実現されるのかもしれませんが、詳しくないのでわかりません)が、それだけでは「竹やぶ焼けた」と「竹やぶ焼けた?」が区別できず不十分に思われ、言語学の本を読んでさらに考えてみたいところ。いずれにせよ、文の正体が何であろうと、この記事で書いた論は通用するはずなので、文の正体の追求は保留してもよかろう(もうそれは回文論の範疇を超えている気もするし)、という判断です。

      「涙落ちた騎手、遅く来る。」は、意図が曖昧ですみませんでしたが、文を単なる文字列として捉えた場合、「なみだおちたきしゅおそくくる」と普通に読める普通の文が、思わぬ仕方で回文と判定されるのをどう考えるか、という問でした。O太郎さんとしては、納得は得られないけど確かに回文ではある、という考えですね。「竹やぶ、焼けた。」などとはだいぶ様子が違うように見えますが、それは回文のルールの外での話(個々人の感じ方の問題)ということになるでしょうか。
      ……なんかコメント欄で議論するのもどかしいですねー。

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  2. 罅ワレさんのすっきりとした定義、深い考察、順を追った文章展開など、多くの面に素晴らしさを感じています。
    一方、いくつかの点から自分の感覚とうまく合わない部分も感じました。
    ・一例で、緩和規則における「しかし餓死。」の回文の要となる「しかしかし」は表記の一つだろうか?また、あわせて考えたペアの一つだろうか?(前回の自分のコメントで言うと、「しかしかし」は文でも表記でもなく、要素となります。)
    ・しんぶんし、やakasakaなどの言葉も回文としたい。
    ・文の定義が表記されたものを指さないため、(自分の持つ)文の意味との差がある。
    こんな自分の見方(ワガママ?)もあり自分でも定義付けを深めてみたくなりました。
    音ルールには自分はタッチできませんし、また続きも楽しみにしています。

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    1. コメントありがとうございます。いろいろ感想が聞けるのはたいへん嬉しく、また参考になります。
      ・「しかし餓死」の問題は次次回くらいに取り上げる予定ですので少しお待ちください。
      ・「しんぶんし」などは、「一語文」として捉えることで文と見なせばよい、というのが私の考えです。
      ・表記されたものが文、という立場もありうると思います。でもその場合、たとえば、文字になっていない話し言葉はどう考えるか(声に出した「たけやぶやけた」は回文と考えられないのか)、とか、文字のない言語に文の概念はないのか、とかいろいろ考えるべきことが出てきそう。
      ぜひ定義づけ深めてみてくださいませ。

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  3. こんにちは。罅ワレさんの回文の定義をしばらく考えていました。
    「たけやぶやけた」だとちょっと面倒なので「いかたべたかい」を例にとってみます。「イカ食べたかい?」が提示する文とその表記「いかたべたかい」が回文になるというのはよくわかるのですが、それでは、「Avez-vous mangé un calmar?」というフランス語が提示する文は「イカ食べたかい?」と本質的に同じなので、「Avez-vous mangé un calmar?」も回文を提示しているとみなしても良いのでしょうか。
    僕は直感的には「Avez-vous mangé un calmar?」を回文とはみなせないと感じてしまいます。これは上の方で議論されていたシニフィエと文の違いとも関係しているのだと思いますが。

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    1. ご無沙汰してます、コメントありがとうございます。
      これも文の定義によるんでしょうね。私は言語が違えば文は違うと思ってるのですが(単語レベルでも、mangerと食べる、calmarとイカは同じ意味なのかという問いには明確に答えようがない気がする)、そういうことを主張するためにも、文の定義をもう少し明確にしないといけませんね。
      あと、おざわくんの主張の理屈だと、言語が違ってなくても、たとえば「イカはお食べになりましたか」「イカ食ったんけ」みたいな文も回文ということになり、ちょっとわけがわからなくなりそう。

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  4. 返信ありがとうございます。言語が違えば文が違うというのは言われてみると当たりまえである気がしてきました。回文の定義は考えれば考えるほど疑問が湧いてきます。難しい問題ですね。難しさは、文というある程度主観的で個人的なものを最終的には「文字列を逆から辿っても同じ文字列になっている」という客観的な問題に帰着したいからだという気がしてきました。

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