毎夏ウンチが溜まり呻吟。
尻・股が沈鬱な今。
[まいなつうんちがたまりしんぎん
しりまたがちんうつないま]
(旧版:(207) 2011/1/11を改作)
回文をどこで完成とするか、その審美眼についての話の続き。
「沈鬱ウンチ」という回文は、おそらく多くの人が知っている(作ったことがある)ものと思われます。ウンチをひっくり返した瞬間にできてますからね。
「沈鬱ウンチ」は、これはこれでもう完成された回文だと思います。インパクトも強いし。ただ、自分の美意識では、ちょっと惜しい点があります。
まず、「意味がはっきりしない」という点です。「沈鬱ウンチ」というのは、ウンチが沈鬱さを感じているのだろうか? それとも、ウンチをするのが沈鬱なのだろうか? 「沈鬱ウンチ」からだけでは、判断ができません。どういう意味かを確定するには、説明を加えるなどして外部から何か情報を与える必要があり、前回使った言葉だと、回文が“完結していない”ということになります。
とはいっても、必ず意味が確定されないといけない、と思っているわけではありません。たとえば「沈鬱ひとり」というのがもし回文だったとすれば、これには私は何がしかの完結性を感じます。これも意味は同じくよくわからなくて、ひとりでいて沈鬱だ、と言っているのか、沈鬱に感じているひとりがいる、ということなのか、それとも何か別の意味なのか、あれこれ考えてみるとはっきりしません。でもこの場合には、「沈鬱」という語と「ひとり」という語にある程度の親和性があって、その2語が並んでいることが「腑に落ちる」感じがします。(でも残念ながらそもそも回文ではないんですが。) 一方の「沈鬱ウンチ」は、「沈鬱」と「ウンチ」に連関が見出しにくく、読み手に関係づけを放り投げています。短歌とかの文学作品ならそれでもいいんですが、回文では、できるだけ語句につながりがあって、論理性ないし完結性が感じられるのがいいなあ、と思っています。
そういうわけで、私はどうもこの「沈鬱ウンチ」には、腹にたまるモヤモヤを感じます。「沈鬱ウンチ」から出発して、できるだけ自分が美しいと思えるような回文にしよう、と試行錯誤した結果、
泡立つウンチが溜まる猿股が、沈鬱だわあ。という回文がまずできました。が、これは回文名人にダメ出しを受けまして、読み直してみるとたしかに何を言っているのか意味分からん気がしてきました。他人の目というのはありがたいものでありますよ。
それで、このたび作り直したのが
毎夏ウンチが溜まり呻吟。です。「沈鬱ウンチ」に比べて圧倒的に完結感が増していることは、納得していただけると思います。
尻・股が沈鬱な今。
この改作によって失われたものもあります。たとえば、インパクトは弱くなっているし、長くなって覚えにくくなっているし、などです。でも、それを差し引いても、意味も論理も美しくなり、完結性が感じられる点を、自分としては評価したいです。
さらに次回に続きますよ。
忘れかけていた痛い思い出が蘇ってしまいました……。
返信削除いやあ、済みませんでした。
でも確かに今回のは意味がすっきりしていると思います。
自分なりの美の基準を持つことは大事ですね。
私はついついフラフラしてしまいます。
痛い思い出でしたか……その節はこちらの反応が悪かったかもしれずすみません。
削除私としては、率直なコメントはたいへんありがたくて、今後も大歓迎ですので、ご遠慮なく何とぞ何とぞ。「泡立つ……」は今見ると、妥協した感がありますなあ。基準とともに、自分の回文を客観視する力も大事ですよね。とても難しいけど。